Vol.1 ラオスに小学校を建てる



ラオスの村に初めて行ったのは1998年。大学4年の夏だった。まだ卒業後の進路も考えておらず、毎日が他人事のように過ぎて行った時期。世の中ではバブルが弾け、大手ゼネコンが不良債権を抱え、不動産は下落し、景気はどん底。建築学科に所属していたわたしはただ何も考えずに、なんとなく興味があるというだけでこのボランティアに参加した。「ラオスの村に小学校を建てる」

そもそもラオスがどんな国か、どんな暮らしを人々がしているのかもほとんど理解せずに、ただその地に行ってしまった事をよく覚えている。そこで初めてラオスという国を肌で感じ、そこに生きる村の人々、子供達の弾ける笑顔に出会った。当時のラオスの平均寿命はおよそ58歳、成人するまでに多くの子供たちが命を落とす、いわゆる最貧国。とある民間NGOが年月を掛けて、この村に教育支援を行い、学校を建てる事業を真摯に行っていた。建築学科の大学生が数名、日本から1週間その土地で過ごす、ボランティアプログラムだった。

その体験は、一言で言うと「衝撃的」。それ以外に言葉が見つからない。

例えば、電気や水道はない。トイレもない。もちろんTVなどの人が作った娯楽なんてものは存在しない。

日の出と共に1日が始まり、日が落ちたら家に帰りご飯を食べて寝る。お父さんは出稼ぎに行き、お母さんは子供の世話と家の事。もちろん子供達も労働の一部として家を支えている。それが当たり前の世界。そもそも学校なんてものが存在していなかった地域だから、子供を学校に行かせる以前の段階。「学校」がどうして必要なのか、学校があったら何が良くなるのかその辺りからがスタート。幸い、この村は長い年月を掛けて、子供達への教育支援という形で、日本の街(群馬県板倉町)との交流を続けており、学校建設は早い段階で着手されていた。「学校をつくる」とはどういうことか、それがわたしが初めて触れた「仕事」だった。

1週間の滞在で「なんとなく」ラオスの村の様子、学校建設ボランティアに触れる機会があったけれど、やはりどうしても物足りない。もっと現地の生活に根をおろしたところで共に暮らしてみたい。そんな衝動に駆られ、大学を卒業後ラオスに行くことにした。幸い、松下国際財団「アジアスカラシップ奨学生」に選ばれ、公費を頂く形でわたしの想いが「研究」という形で継続できる事になった。どうしても知りたかった、確認したかったのは「学校ができたら村はどう変わるのか?」

という事で、2000年に改めてラオスの彼の地。セコン県ラマム郡パクトンタイ村に帰る機会を得た。

一方では、その土地に丸腰で1年も行って、一体自分に何ができるのだろう。一体自分はこれから何がしたいのだろう。そんな漠然とした不安やモヤモヤは消える事がなく、その想いはずっと自分の中心に鎮座したままだった。

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実際に一人で村に入り、地域の教育委員の人たち、村の人たち、子供達と暮らして行くと、そんな漠然とした想いを覚えておくほどの余裕なんてなく、まずはなんとか「生きて」行かなくてはならない。食べる事、寝る事、会話する事、働く事、それはやって行かないといけない。どういう訳か、何も手掛かりがなく、こうして思いっきり知らない世界に投げ込まれると、人間は「本能」が最大限に機能するように出来ているらしい。身体が勝手に「生き残ろう」とする。

当時のわたしはこの生涯で一番健康だったのかもしれない。食べる事以外はほんとうに人間らしい生活を送っていたし、生きるためには身体を使う必要があるから、筋肉もつき、体力もつき、不調になることは一度もなかった。それどころか何だかわからないけれど身体が勝手に、とても鋭く五感を発揮する感覚をなんども味わった。「生きている!」と実感できるような。

例えば、稲刈り。こんな体験、日本にいてはなかなかできないけれど、この地では当たり前に自分で田植えをし、稲の世話をし、しかるべき時に稲刈りをする。鎌をどんな角度で入れるのか、どうやったらすぐ刈れるのか、村の人たちはみんな知ってる。東京で産まれ育った自分はたかが稲を刈るだけでも、ほんとうに足手まとい。



食べるためには田植えをして「稲刈り」をする


そのあとは自分たちで「脱穀」をする。こんなシーン、餅つきでしかみた事がなかった。この世界にまだ自分で脱穀をする人がいるんだと感動すらする。そしてこれが本当に難しい。女の子ですら、タイミングやコツをしっかりわかっている。ちゃんとやらないと重たいし体力を使う「重労働」。そして、米を食べるには「水」がいる。当時はまだ井戸もなかったので、水は河に汲みに行く。この村の近くにはメコン河の支流が流れており、村から随分くだったところに河がある。そう、水汲みも子供達の「仕事」。空っぽの桶を幾つも手に持ち、村をくだって行く。帰りは桶いっぱいの水を抱えて村まで登って帰る。本当に大変だ。水汲みは毎日行われていた。(注意:現在は村に井戸がある)



「脱穀」も子供たちの仕事


こうしてようやく「ご飯」が食べられる。これが日常。大人も子供も食べるために暮らし、生きている。鶏や豚、牛などの家畜とも共同生活。魚が取れればそれを食べ、野菜が取れればそれを頂く。だから自然に大いに委ねて生きている。干ばつや洪水があれば食べられるものが一気になくなり、生活は一変する。そういう生活の中で生きているから「学校」に行って教育を!そんな「将来の夢」を頂く余裕は確かにない。でも、学校作りを通じて確かにこの村に変化があった事は、親は子供達に教育を受けてもらいたいし、子供たちは本当に「学校に行って勉強をしたい!自分の夢を生きたい!」それは心の底から誰もが抱いていた。勉強する事は「仕事」に繋がる。そんな純粋な思いが村には溢れていた。

学校ができてからの村は光り輝いていた。村の中心に学校があり、子供達の生活の中心に学校がある。学校では先生たちが「知らない事」を沢山教えてくれる。それは生きるために水汲みに行く事だけではない「人生の新しい何か」を子供達に抱かせてくれる。夢そのもの。自分が心からやりたい事が将来できるようになるかもしれない。そんな「仕事」への道を開いてくれる。それが学校だった。ちなみに当時、子供達に将来何になりたいの?と聞くと、男の子は「兵士」。女の子は「先生」が多かった。そもそも職業の選択肢をそんなに知らない子供達にとってはこの質問自体が愚問だった事を、今の自分にはわかっている。



学校ができてからの村は毎日が子どもたちの「笑顔」で輝いている


およそ1年間、ラオスの村で活動を行った。その後、日本に帰国し当時20代前半だった自分ができた事は、ラオスでの体験を人々に広く伝える事、唯一それだけだった。ラオスの子供たちは学校ができても学校にはいけない。教育費はほぼ無償なのにいけない。どうしてかと言うと、制服もないし靴もない、鞄もなければ文房具もない。勉強するために必要なものをほとんど持っていないのだから。日本に帰ってラオスの現状を伝え、学校に行けるようになるための奨学金支援を広く募った。

幸い、新聞や地方紙に沢山掲載してもらった為、多くの支援を頂く事ができた。日本の心ある方々からの想いをラオスに届ける事ができ、沢山の子供達が学校に通えるようになった。当時の自分にできる事はそこまでだった。ラオスの体験を自分の言葉で伝えられる人はあまりいないし、こうして支援の輪も広がったのだから万事うまく行ったのかもしれない。

けれど、心の中心にあった漠然とした想い「そもそも自分は何をやりたいのだろうか」、、、

モヤモヤした「それ」が再び強く湧き上がるようになった。

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ラオスの活動を広く伝える中で、母校の大学から講演をしてほしいと頼まれた。その頃は母校の小学校でも、中学校でも講演をさせてもらっていたし、人に伝えるのは嫌いではなかったので、快く大学からの依頼も受諾をしていた。

ラオスでの体験を伝える事、進路や将来に漠然と不安を抱く学生に何かのきっかけになったらいいな、それくらいの軽い思いで教室に入った。建築学科で行われたその授業は「村おこしと建築」。つまりわたしがラオスで行ってきた体験そのもの。学校という建築物ができると村はどのように変わって生き、人々の暮らしがどう変容して行くか。実体験からのお話を伝えれば伝えるほど、学生の眠たそうな目が起きてくる。生々しい体験は人にストレートに伝わるようだ。

多くの学生からとても有意義な授業だったと感想を頂いた。最後の質疑応答でも沢山の「真面目な」質問をもらった。とても楽しい授業だった。ただそんな中でとある学生が発した一言は今でも僕ははっきり覚えている。

「そんな綺麗事はいいから就職しろよ」。

彼はその言葉がこちらに聞こえた事はわかっていなかったと思う。それくらい小さい声で彼はボソッと呟いた。1時間の講演を終えた後もその言葉は自分の脳みその中でずっと反芻され、胸の中にあったモヤモヤが何とも言えないうずきの情感に変わって行った。

彼が言いたかった事は本当に理解できる。

本当にその通りだと思う。人間はボランティアだけでは生きていけない。綺麗事だけを言っていては世間が許してくれない。この社会の中で生き残って行くためには仕事をしてお金を稼いで行く必要がある。それが出来ていないのに誰かに何かを伝えようとしても、絵空事のようになってしまう。

そもそも自分とは何かもわかっていないのに、どうやって人生を生きようか。自分にとっての「働く」とはなんだろう。ぐるぐるめまいがしてくる。

友達はみんな就職して行った。自分だけ何か遅れている。自分はダメな人間だ。今の日本にいても結局何も生んでいないのではないだろうか。そんな自己否定が一気に始まった。「わたしの情熱」はいつしか「わたしへの憤り」に変わっていた。

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ラオスから戻って日本にいても本当に気力が湧かない日々が始まった。友人たちはみんな社会人として立派に新しい生活を始めている。それなのに自分はどうだろう。何もスタートできていない。この社会の中で何も生み出していない。生産性がない。

あれだけラオスで貴重な体験をしてきたにも関わらず、何ももっていない「空っぽ」な自分を感じる日々。どこまでも強い自己否定感が生じてくる。ラオスで体験して来たことは本当に自分がやりたかった事のはずだった。あの村では子どもたちの未来のために「生きている」実感があったし、その小さな社会の中で「役に立っている」実感もあった。それが日本にいると全くない。何かとてつもなく遠回りをしているし、むしろ無駄な時間を過ごしてきてしまったのではないか。そんな疑問すら生まれてしまう。

社会性がないことがこれほどまでに自己否定感を生むという事を始めて肌感覚で知った。

日本で暮らすには、働いて何かを生み出す必要がある。大人として振る舞い「やりたい夢」を追いかける事など、そんな自由は死ぬほど働いてから言え!そんな脅迫観念にも近い力動が自分を圧迫してくる。ここにいるのは生きているのに何も産まない人間。仕事をしていないからお金も稼げない人間。もう立派な大人なのに引きこもりのように暮らす人間。

「育て方を間違えたのかしら」

そんな風に両親は思っているにちがいない。大学まで出してもらったのに親に申し訳ない。懺悔にも近い丸っこい塊が自分を覆い尽くし、もはや身動きが取れないほどの「リバウンド」が襲ってきていることに気がつく。本当は泣いて謝りたいくらい「社会性がない」事を謝りたかったのに、それすらも出来ない自分がいて、とてつもなく無力な存在で声も出せない。

そんな風に極限にまで落ちていくと、皮肉にもそこにある「小さな想い」に初めて触れることができる。たった1%くらいの「こんなんじゃない!」「人間が求めるものは社会性なんかじゃない!」そんな欠片のような想いがまだ自分という底の中にひっそりと静かに落ちているのを知った。

Vol 1. ラオスに小学校を建てる 〜完〜

続き、近日公開。